個人メモのサイバー書庫

サイバー空間上の個人的なメモなので、読むに値しません。

今までの教育が間違いだったという件。

最近「新しい教育」というものが大受けしてる。それによると、これまでの教育は、「暗記を通した知識習得が優先され、既存の理論や考え方を疑いを抱かずに理解することが求められる」教育だったという。そして、これこらの時代の教育は知識優先のものではなく、ヒトとアイデアを共有して、それを議論を通じて発展できるものに変わらなければならないというのだ。全てが大きく変わろうとしている、歴史的なタイミング、それがまさにそうなのだと。

 

私は「またか」と思う。こんなインチキめいたビジネストークに、なぜ多くの教育者は騙されるのか。本気でその主張に同意してるのか。その根拠は何なのか。何も理解できないから、いかにも「メインストリーム」に見える声高な主張について行ってるだけではないのか。あるいは上司が言ったから羊のように従っているのか。何にせよ、私はこんなクズアイデアに付き合いたくないし、触れたくも無い。強制されるなんてもっての他だ。

 

 今までの教育が、知識優先で、考えることを二の次にしたなどと言うのは根拠の無い言いがかりだ。いかにもそういう気がするだけだ。

例えば日本の若者は以前に比べてダメになっているように言われるがとんでもない。少年の犯罪率はどんどん下がっているし、平均的な学力は上昇している。しかし、誰かが「今までの教育は知識優先で、これからの時代には通用しない」と言い出すと「さもありなん」と思う。なぜそう思うのか。大半の人間が「これまでの教育」システムにおいて、決して成功者では無かったからだ。「あなたが成功しなかったのは、あなたが努力を欠いたからだ」と言われるのと、「あなたが成功しなかったのは、これまでの教育システムに偏りや欠陥あるいは時代に合わない古さがあったからだ」と言われるのとではどちらが「快適」か。

人間は無意識に自己のエゴを守るために、自分のことを擁護してくれる意見を採用する。それが真実だろうが、何だろうが知ったことでは無い。そういうデタラメが無意識のうちに、自己の信念を形成している。

そもそも「教育」に古いも新しいものないのでは無いか。3000年も前に論じられた図形の証明問題(要は初歩論理学)に頭を悩ませ、1500年前に考え出された代数の問題が解けないでいるでは無いか。それなのに「これまでの教育は間違いだった」と言い切れる、その自信は何なのか。

私が理想とするのは、汎用な頭の持ち主(つまり自分である)でも、知的なものを志向し、それに馴染み、それを楽しむことが出来るということだ。私にとって「学習」とは散歩であり、暇つぶしであり、見物である。

それが今流行りの教育に関する教説は、「新しい教育の時流に乗らないと時代に取り残され、生き残れないぞ」と脅してくる。

しかし、違うのだ。そんな脅しを受けて、果たして何かを「学ぶ」ことが出来るのか。そんなサバイバルのための行為が「学び」だと言えるのか。

もっと身近な例をあげてみよう。中学生や高校生の頃、とっても英語が好きで堪能な子(大抵女の子)がいたものだ。始終英語を勉強し、その向上を目指している。しかし、彼女らは英語がこれからのグローバル化の時代に備えて英語を勉強してるのでは無い。彼女らはアメリカやイギリスのバンドが好きだったから、そのライフスタイルに憧れて、その憧れたものに接近するために英語を学んでいるのだ。

私はこういうのが「学び」だと思う。「深い学び」や「グローバル化の時代に生き残るために」などと小賢しいことを言ってるうちは、「学び」など存在しない。そこには経済的な利得行為があるだけで、「学び」や「文化」はその装いに過ぎない。