個人メモのサイバー書庫

サイバー空間上の個人的なメモなので、読むに値しません。

最近は、授業の形式として、いわゆる「アクティブラーニング」が推奨され、既存の「講義」形式の授業は「古きもの」として消えつつある。

ただ、ここで確認しておきたいのは、いわゆる「講義」形式の授業の何が悪いのかということである。人によっては、「知識」を蓄えるということ(多くは「暗記」と呼ばれる)にもはや価値が無いことのように説明しているが、それは違う。それ相応の知識がしかるべき量だけ無ければ、まともな議論など出来ない。ある哲学的な命題を含んだ議論をするのなら、その命題がこれまでどのように議論されてきたかを知らなければお話にならない。あるいはある企業を評価するにしても、財務諸表の見方を知らなければ、議論のスタートに着くことも出来ない。ネットで少し調べて、「ああ、なるほどね」と納得し、議論を続けられるようなものでは無いのだ。当該の知識を時間と労力をかけて「理解」し、さらに自分なりに消化した、その知識を蓄える必要が出て来るのだ。

私が理解しているアクティブラーニングの価値は、およそ次のような文脈においてである。

それはネットの普及にはじまる。ネットが世界中に広まることで、誰もがアクセスできる「知」のデータベース的環境が出来上がる。ここで言うネットの「知」には、ネットによって容易にリアルな本が簡単に手に入ったり、リアルな本が電子書籍化することも含んでおり、ネット上のものだけを指しているのでは無い。

そのネットへのアクセスによって、それなりの知識=教育が手に入るのなら、教育の最上部に位置する大学では、どんな「教育」が手に入るのかということになる。(ここでは学生は「消費者」であり、大学側は「教育」を消費者にサプライする企業ということになる。)

アメリカの私立大学では、学費が数百万円にのぼるところがざらにあるが、それだけのお金を使わせておいて、教えてもらったことが、探せばネットで見つかりますよということになると、どうだろう?当然「金、返せ」という話になるだろう。

インターネットの普及によって、多少の努力と理解力があれば、かなりの程度の知識はフリーかそれに近い出費で獲得できる時代になったのだ。これによって、知識の金銭的な価値にインフレが起こり(知識の有り難みが消え失せ)、これまでのように「教えてあげたんだからお金頂戴」にはならないのだ。

慎重に考察すると、知識や知識の伝達の「経済的な」価値が低下してきた(希少性が薄れてきた)のであって、私たちの知的な活動に、知識や知識の蓄積が不要になったという訳では無い。その辺が、多くの場合勘違いされていて、「もはや私たちには知識を蓄えるプロセスなど不要なのだ。私たちは、その能力を創造性と協働性に特化した活動をしていればいい」という言い方が散見される。

もう一度同じような話をして恐縮だが、「知識の伝達」がこれまでのように商売のタネにならなくなったということであり、「知識の伝達」が人間の知的活動において無意味になったということではない。

そこで大学では、獲得された知識をいかに発展・熟成、あるいは現実に適用していくかという、知識とリアルが結びついたり、相互作用し合うプロセスを学生に体験させることを目指すワークショップのように授業を変えていく必要が出てきた。そうでもしないと、もはや消費者(学生)を満足させて、お金を取ることが難しくなってきたのだ。

もちろん、そのような場が活性化するには、各学生がワークショップ(授業)に臨むまでに膨大な知識を持っている必要がある。丸腰できてもらっても、議論は一向に深まらないし、チューターとして臨む教員の質問の真意も理解できないだろう。

(例えば、「幸せの王子」の中で、象徴されるものは何ですか?と問われて、「自己犠牲の精神」と断じてしまっていいのでしょうか。それは作品を殺すことになりませんか?)